生きる意味とは何か。
人生の目的は、どこかに用意されているものなのか。
僕は子どもの頃から、この問いを何度も考えてきました。
今の僕の答えを先に書くなら、生きることそのものに、立派な意味を背負わせなくてもいいと思っています。
ただ呼吸して、食べて、成長して、いつか終わる。
それだけでも、生きることは成立している。
けれど、人間として暮らしていると、そこに欲や目的や誰かとの関係が乗ってきます。
その部分を、僕は「人生」と呼んでいるのだと思います。
この記事では、幼い頃の記憶から、僕が考えてきた「生きること」と「人生」の違いを振り返ります。
正解を出すというより、長く考え続けている問いの途中経過です。
生きる意味を考え始めた幼い頃の記憶
僕は小さい頃にある病気にかかりました。
その1年前にできていた薬がなければ、死んでいたか、もしくは重い障害を持つことになっていたらしい。
その薬のおかげで僕は助かりました。
ただ、その時に医者から「天寿を全うすることはできない」と言われたのを、今でもはっきり覚えています。
言葉の意味を理解していたわけではありません。
母が泣き崩れたから、記憶に残っているのです。
それ以前に、母が泣いたのを見た記憶がありません。
幼い僕にはなんのことかわからず、「てんじゅをまっとうって何?」と母に聞きました。
ちょうどテレビで汚職事件と言っていたのを、お食事券だと思って「うらやましい」と言い、母を笑わせていたくらいの頃です。
そんな僕に、母は「長生きはできないってことだよ」とまっすぐ答えてくれました。
それから僕は、生きることと死ぬことについてよく考えるようになりました。
いずれ人は死ぬ。
そのことを、子どもの頃からはっきり意識するようになったのだと思います。

生きることと人生は同じではない
成長するにつれて、「人間が生きること」には、ただ生きるだけでは済まされない悩みや苦しみがあることを知りました。
仕事がしんどい。
人間関係がうまくいかない。
心から話せる人がいない。
後悔ばかりが頭に残る。
そういう時に、ふと生まれてくる疑問があります。
「生きる意味がわからない」
この問いは、かなり厄介です。
一度浮かぶと頭から離れず、全身の気力を奪っていきます。
でも今の僕は、生きる意味がわからない時に探しているものは、「生きること」そのものの意味ではないのかもしれないと思っています。
もっと周辺にある、人生の手触りのようなものを探しているのかもしれません。

生きることは、呼吸して食べて成長すること
生きることは、ただただ成長することだと思います。
呼吸して、心臓を動かして、食べて、眠って、少しずつ変化して、最後には死ぬ。
生き物だからです。
だから、「生きる意味がない」ということは、本来はないはずです。
生きていること自体が、もう生きているという状態だから。
ただ、人間はそれだけではなかなか納得できません。
呼吸していれば幸せだと、いつも思えるわけではありません。
人生は、生きることに欲や目的が乗ったもの
ここで、少し気の抜けた例えにします。
カツ丼で考えてみます。
自分でも、かなり雑な例えだというのはわかっています。
でもカツ丼はおいしい。
僕はカツ丼が好きです。
カツ丼に、甘辛く煮たカツも、玉ねぎも、卵もなかったらどうでしょう。
そこには、ただの白いご飯が残ります。
この白いご飯が、生きることに近いのだと思います。
白いご飯だけでもお腹は満たされます。
生きることも同じで、それだけで死ぬまで続いていくものです。
でも、人間だから具が欲しくなります。
カツも欲しい。
卵も欲しい。
玉ねぎも、甘辛いタレも欲しい。
友達が欲しい。
恋人が欲しい。
お金が欲しい。
おいしいものを食べたい。
認められたい。
そうした欲や他者や物がからんでくると、本質を見失いがちになります。
僕は「生きること」と「人生」は、そこが違うのだと思います。

最近整えたこの記事でも、近いところを考えています。
つまらない自分に気づいた時、僕がどこへ戻ってくるかを書きました。

人生が楽しくない時に見えなくなるもの
「人生が楽しくない」という悩みも、結局は欲のオプションと関係しているのだと思います。
カツ丼の例えで言うなら、ご飯は大盛りにしたい。
具は多めがいい。
時にはつゆだくにしたくなる。
人間は、どうしてももっと欲しくなります。
楽しいか楽しくないかは、その欲とどう付き合っているかに左右されやすい。
しかも、その欲には他人がひも付いていることが多いです。
人に認められたい。
誰かに好かれたい。
仕事で評価されたい。
他人の反応が必要な欲は、自分だけでは完結しません。
だからこそ、人生が楽しくない時ほど、自分の見方や暮らし方を点検する必要が出てくるのだと思います。

人生が面白くない、楽しくないと感じていた頃の見直しは、こちらの記事にまとめています。

人生の目的は、人それぞれでいい
では、人生の目的とは何でしょうか。
本質的には、生きることに意味も目的もいらない。
けれど、「生きること」と「人生」が違うなら、人生には目的があってもいい。
僕はそう考えています。
人生の目的も、欲のオプションにかなり近いところにあります。
何を欲しがるか。
何を大事にしたいか。
どんな人と、どんな時間を過ごしたいか。
それは人によって違って当然です。
だから、目的はこう持つべきだと決めつけるものではないと思います。
その時の自分が、何に向かいたいのか。
何を手放したいのか。
何をもう一度見たいのか。
ゆっくり考えればいい。
答えがすぐ出ない問いは、すぐ出ないまま抱えていてもいいのだと思います。

考えが重くなる時は、暮らしの土台が乱れていることもあります。
酒やカフェインをやめてみた時の変化は、こちらに残しています。

まとめ:答えを急がず、考えながら生きる
僕らは知能を持ってしまったから、悩みます。
生きる意味を考えます。
人生の目的を探します。
でも、それは悪いことばかりではありません。
悩めるから、選べる。
考えられるから、少しずつ変われる。
生きることは、呼吸して、食べて、成長して、いつか終わること。
人生は、そこに欲や目的や誰かとの関係が乗ってくること。
僕は今のところ、そう考えています。
答えを急がなくてもいい。
生きる意味や人生の目的は、すぐに結論を出すより、時々立ち止まって考え直すくらいがちょうどいいのかもしれません。

生き方について、もう少し別の角度から考えたい時は、こういう本をゆっくり読むのも合っています。
すぐに答えを出すためではなく、自分の問いを静かに置き直すための一冊として。